大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成8年(ワ)7618号 判決 1997年5月26日

主文

一  被告は原告に対し、四六六万七八三七円及びこれに対する平成七年一一月一日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  この判決は、仮に執行することができる。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

主文同旨

第二  事案の概要

本件は、原告が従業員であった被告に対し、被告が在職中に原告の社員留学制度によって留学した際に、原告が支出した留学費用は、原告が被告に貸し渡したものであると主張してその返還を求めた事案である。

一  前提となる事実(以下の事実は当事者間に争いがないか、末尾掲記の証拠によって認められる)

1 当事者

原告は建築工事請負等を業とする会社である。被告は昭和六一年四月原告に採用され、平成二年三月当時建設事業部東関東支店営業不動産部に所属していた。

2 留学制度及び被告の留学

原告には社員留学制度がある。右制度においては、毎年一月社員から留学希望者を掲示等で募集し、応募した社員を選考のうえ合格者を留学させるものとし、原告は留学に伴う渡航費、留学費、留学中の手当等を支出している(以下「本件留学制度」という。)。

被告は本件留学制度により、平成三年六月より平成五年五月までの間、米国チュレーン大学大学院に留学した。その間右留学について、原告は左記の費用を支出した(以下「本件留学費用」という。)。

(一) 渡航関係費 一九〇万五九一四円

(二) 学費 四六六万七八三七円

(三) 特別手当 一九〇万五三〇〇円

3 誓約書

右留学に先立つ平成三年六月、被告は左記内容の誓約書に署名押印し、原告に差し入れた(以下「誓約書」という)。

(一) 留学先へ渡航後は、学業に精励し、必ずや学位を取得し卒業すること。

(二) 卒業後は、直ちに帰国し、会社の命じるところの業務に精励するとともにその業績目標達成に邁進すること。また、長谷工の留学生の名に恥じないような見識を備えるべく日々努力すること。

(三) 帰国後、一定期間を経ず特別な理由なく長谷工コーポレーションを退職することとなった場合、会社が海外大学院留学に際し支払った一切の費用を返却すること。

4 被告の退社

被告は平成七年一〇月三一日付をもって原告を退社した。

二  主たる争点

1 原告と被告との間で、本件留学費用について消費貸借契約が成立しているか。

2 1が認められる場合、右消費貸借契約は労働基準法(以下「労基法」という。)一六条に違反するか。

三  原告の主張

1 争点1(消費貸借契約の成否)について

(一) 本件留学制度のもとにおいては、原告は被告に対し、留学に伴う渡航費、学費、手当等を被告に貸し渡し、右貸金については留学した社員が帰国後一定期間原告に継続勤務するときはその返還義務を免除することとし、一定期間を経ず特別な理由なく退社するときは返還する旨定められており、被告もこれを知悉したうえその旨の誓約書を差し入れたものである。

(二) しかるに、被告は前記のとおり平成七年一〇月三一日付をもって退社したので、原告は右合意に基づき本件留学費用全額の返還を求めうべきところ、諸般の事情を考慮し本件留学費用中学費のみの返還を求める。

(三) 被告は、消費貸借契約は要物契約であるが金員の交付を受けた事実がないと主張するが、原告は被告に対し、右消費貸借契約に基づき、別紙「甲野太郎(第一一期海外大学院留学生)・貸与金明細」のとおり、総計八四七万九〇五一円を所定の口座に振込送金し交付している。

2 争点2(労基法一六条違反の有無)について

本件は、単なる貸付金の返還を請求するものにすぎず、労基法一六条の定める違約金でも損害賠償額の予定でもなく、同条に違反しない。

本件留学制度は被告の個人的な資格取得を目的とし、留学生は本人の自由意思に基づく希望者の中から選考され、原告はその費用を立て替え貸し、返還を求める際には減額や分割払いを認めており、さらに返還免除に要する勤務期間は約八年程度であり、従来退職希望者は全員退職している。被告は自由意思に基づいて本件留学制度を利用したもので、その返還免除の利益を受けようとすれば一定期間勤務すればよいのであって、借り入れた実費を返還すればいつでも退職の自由が認められるから、なんら退職の自由を束縛するものでもなく、また自由意思に反して不当に長く労働関係の継続を強制するものでもない。

四  被告の主張

1 争点1(消費貸借契約の成否)について

そもそも、本件では原告の請求の基礎となるべき原告・被告間の金銭消費貸借自体が存在しない。本件において、原告・被告間には、金銭消費貸借を成立させるべき効果意思が認められない。誓約書作成時においては、金銭消費貸借契約の重要な要素である返済額が確定していない。いくら返還する義務が生じるかわからないような契約が、原告・被告間に成立するはずがない。原告の求める費用の返還額の決定は余りに恣意的である。返還義務を免れる勤続年数も明示されておらず、明確な基準とはいえない貢献度も加味されて返還額が決められている。これらのことも、本件費用返還が貸金ではなく違約金であることを表すものである。

また、消費貸借契約は要物契約であるところ、本件において、被告が原告から返還約束のもとに金員の交付を受けた事実はない。

2 争点2(労基法一六条違反の有無)について

仮に、本件で原告・被告間に金銭消費貸借契約が認められたとしても、それは労基法一六条に違反し無効である。誓約書三項の内容は極めて不明確であり、労働者としては果たして何年在籍すればいいのかまったくわからない。このような不明確な内容の契約が有効であるとすれば、労働者は自由意思に反して労働契約を継続することを強制される結果となり、これはまさに労基法一六条が禁じるところである。そして、「一切の費用を返却」を労働者側に約束させることは、労基法一六条の禁止する違約金または損害賠償額の予定にほかならない。

第三  争点に対する判断

一  前提となる事実

前記争いのない事実及び《証拠略》によれば、次の事実が認められる。《証拠判断略》

1 本件留学制度は「専門分野の深耕と幅広い人脈・人間性を構築し、厳しい環境の中でも積極的に対応できる人材の養成」を目的とし、昭和五四年以降平成六年までの間に一四期にわたり実施された。応募条件は「総合職、二九歳以下、勤続二年以上」のみで、社員の自主的な応募によるものであり、毎年一月に社内掲示等で応募者を募集していた。

被告は平成二年一月に本件留学制度第一一期に応募し、TOEFL模擬試験、論文、面接等の選考を経て合格した。第一一期の応募者は三三名いたが、合格者は原告を含む七名であった。

2 本件留学制度においては、合格者は四月一日付けでそれまでの所属部署から人事部へ異動し、人事部付・海外大学院留学生候補(以下「留学生候補」という。)として約一年二ヵ月間現業の職務を免除され、留学準備に専念することになっていた。被告は他の一一期生とともに平成二年四月一日から平成三年五月末日までの一年二ヵ月間留学生候補であった。右留学準備の期間、留学生候補は、英語力判定試験(TOEFL、G-MAT等)を受験し、志望する米国大学院が要求する判定点を確保し合格通知を得るため、語学専門学校への通学や自習による英語力の向上、米国大学院に関する情報収集、志望する米国大学院の選定と願書の作成・送付等の作業を行い、留学先の米国大学院を決定する。留学先大学院や学部の選択は、本人の自由意思に任せられている。この期間中、留学生候補は「留学生室」に出勤し自習や留学準備を進め、あるいは語学専門学校へ通学する。また、留学準備期間中の勉強や準備に関する進捗状況の掌握、費用等の出納業務、留学全般に関する質問や相談に応じるために担当者が配置され、第一一期生の担当者は幸谷登(以下「幸谷」という。)であった。

3 原告は本件留学制度の応募者に対し、選考面接の際、退職する場合は費用を返還すべきことを説明し、留学生候補の期間中も、幸谷ら各担当者は被告ら留学生候補に対し同様の説明を行った。平成三年五月、留学先への出発に先立ち、原告は「渡米前ガイダンス」として留学期間中の諸事項について、被告ら留学生候補七名に対し説明会を実施し、幸谷が「誓約書」の署名・捺印について告知し、後日留学生室に誓約書を持参して被告ら留学生候補七名に署名・捺印してもらい、その提出を受けた。

4 本件留学制度において、留学期間は原則二年間であり、留学修了後は本人の配属希望をもとに現業に復帰する。被告は被告自身が選定した一一校に出願し、合格通知のあった七校の中から米国チュレーン大学大学院を選び、平成三年六月から平成五年五月まで同大学院に留学し、同月末大学院での所定単位の履修を修了し、経営学博士の学位を取得して帰国、同年六月より留学前に所属していた東関東支社に復帰し建築受注営業を担当した。

5 留学生候補期間及び留学中の給与・賞与は原告の規定どおり支払われ、給与・賞与とは別に、渡航関係費(主に航空運賃と引越費用)、大学院学費、滞在中の住居費と書籍購入費を補助するための特別手当が支給されることになっており、原告は被告に対し、平成三年五月二一日から平成五年一〇月二五日までの間別紙「甲野太郎(第一一期海外大学院留学生)・貸与金明細」のとおり、本件留学費用総計八四七万九〇五一円を本人指定の口座に振込送金した。

6 第一期から第一四期までの留学生四八名の中で、これまでに被告のほか九名が退職した。そのうち、四名は留学後の勤続年数が七年以上であったため、原告は留学費用の返還債務を免除した。残り五名については、勤続年数、会社貢献度、退職理由、本人の資力等の各自の事情に応じて、学費の全額ないし一部を一括ないし分割で返済する旨の返還契約が原告との間でそれぞれ成立しており、内三名については返還が完了しているが、残り二名については右債務の履行が滞っている。

二  争点1(消費貸借契約の成否)について

右認定事実によれば、本件留学制度は原告の人材育成施策の一つではあるが、その目的は前記認定のとおり、大所高所から人材を育成しようというものであって、留学生への応募は社員の自由意思によるもので業務命令に基づくものではなく、留学先大学院や学部の選択も本人の自由意思に任せられており、留学経験や留学先大学院での学位取得は、留学社員の担当業務に直接役立つというわけではない一方、被告ら留学社員にとっては原告で勤務を継続するか否かにかかわらず、有益な経験、資格となる。従って、本件留学制度による留学を業務と見ることはできず、その留学費用を原告が負担するか被告が負担するかについては、労働契約とは別に、当事者間の契約によって定めることができるものというべきである。そして、前記認定のとおり、被告は留学に先立って、誓約書に署名捺印して原告に提出し、「帰国後、一定期間を経ず特別な理由なく被告が原告を退職することとなった場合、原告が海外大学院留学に際し支払った一切の費用を返却すること」を約束し、原告から、別紙「甲野太郎(第一一期海外大学院留学生)・貸与金明細」のとおり、被告指定の口座に振り込む方法で本件留学費用の交付を受けたことが認められるから、原告と被告との間で、少なくとも本件で原告が請求している学費については、被告が一定期間原告に勤務した場合には返還債務を免除する旨の特約付きの金銭消費貸借契約が成立していると解するのが相当である。

被告は、原告・被告間には、金銭消費貸借契約を成立させるべき効果意思が認められないと主張するが、前記認定事実によれば、被告は、誓約書作成時には誓約書記載事項を履行する意思をもって、これに署名・捺印して原告に提出したものと認められる。これを否定する被告本人の供述は、誓約書作成時には原告を早期退職するつもりはなかったため、右特約により留学費用の返還を免除されるであろうと期待していたことを窺わせるにすぎず、原告・被告間に金銭消費貸借契約を成立させるべき効果意思がなかったと認めるに足りるものではない。

また、被告は本件消費貸借契約は、借入額や返還債務免除の基準が不特定であると主張する。しかし、借入額については「留学に際し支払った一切の費用」との一応の限定がなされており、少なくとも本件で請求されている学費がこれにあたることは明かであり、学費について消費貸借契約が成立していることは疑いがない。返還債務免除の基準は曖昧な点はあるが、そもそもこれはあくまでも債務免除の特約であるから、その基準が曖昧であることから消費貸借契約自体が成立していないということはできないし、前記のとおり本件留学制度が原告の人事施策の一つでもあることからすれば、返還債務が免除される勤続年数等の基準については社会常識に照らしある程度の特定はできうるものである。

三  争点2(労基法一六条違反の有無)について

前記認定のとおり、被告は原告に対し、労働契約とは別に留学費用返還債務を負っており、ただ、一定期間原告に勤務すれば右債務を免除されるが特別な理由なく早期退職する場合には留学費用を返還しなければならないという特約が付いているにすぎないから、留学費用返還債務は労働契約の不履行によって生じるものではなく、労基法一六条が禁止する違約金の定め、損害賠償額の予定には該当せず、同条に違反しないというべきである。

四  信義則違反の主張について

なお、被告は「被告の返還義務が肯定されるとしても、原告と被告の社会的地位の強弱、資力その他を総合考慮し、返還義務の範囲は信義則によって制限されるべきである」旨主張するところ、確かに、本件留学制度は原告の人事施策の一つであること、通常、留学社員は留学時には、一定期間以上原告に勤務して留学費用の返還債務を免除してもらうつもりであり、学費等の借入額に無頓着な場合がありうるが、米国の大学院学費が高額なこともあり、留学費用が相当高額になりうること、返還を免除される一定期間の勤務や会社への貢献度について、原告と留学社員との間で認識の違いが生じうること等からすると、信義則によって、返還義務の範囲を限定すべき事例はあるであろう。しかし、本件においては、原告は学費しか請求しておらず、また、被告は留学から帰国後二年五ヵ月しか原告に勤務していないうえ、本件請求を減額しなければ信義則に反すると認めるに足りる具体的な事情について主張立証はなく、本件請求を全額認容することが信義則に反するということはできない。

五  結論

よって、原告の請求は理由があるから認容することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 白石史子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例